消えた銅像 八田與一物語【日文親子導讀】
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信仰が培った人格
八はっ田た與よ一いち(1886-1942)は金沢の裕福な農家に生まれ、幼少時から人を貧富や階級で差別しないと説く浄土真宗の影響を受けて育ちました。また第四高等学校在学中は倫理学の教授・西田幾多郎による利他の理念にも大きな影響を受けました。
1907年、與一は東京帝国大学土木科に入学し、クリスチャンの廣井勇博士のもとで数学と土木工学を学びます。そして廣井の「橋を造るなら人々が安心して渡れる橋を造らなければならない」という言葉、また先輩である青山士の「自分の生きる目的はただひとつ、人類に対して貢献することのみだ」という言葉を胸に刻み、勉学に励みました。こうした人たちの思想的な影響を受け、與一は卒業後は日本を出て、台湾で人々のために働こうと決めました。
台湾での水利事業
台湾は古くからマラリヤやコレラ、ペストといった伝染病が蔓延しており、これらの感染を予防するためには清潔な飲料水の普及が不可欠で、上下水道の整備が喫緊の課題でした。1914年、與一は台湾総督府の技師として、尊敬する先輩技師・浜野弥四郎の手掛ける台南上水道事業計画に参加することになりました。
1917年8月、與一は故郷金沢に戻り、米村外と代よ樹きと結婚します。外代樹は金沢第一高等女学校を首席で卒業しており、当初母親は娘を台湾に嫁がせることに反対していましたが、外代樹は與一と台湾へ渡り、苦楽を共にすることを決意しました。渡台後二人はしばらく台北で過ごし、やがて台南烏山頭の荒れ地に居を移します。夫婦は仲睦まじく、二人は二男六女をもうけました。子供たちはみな台湾生まれ、いわゆる湾生です。
八田與一の家族写真(金沢故郷偉人館にて著者撮影)
烏山頭ダムと嘉南大圳の計画
1918年、與一は嘉南平原で調査を行い、この地が春夏の雨季にはたびたび水害に、秋冬の乾季には干ばつに見舞われること、沿岸部の土壌は塩分が多すぎること、それ故に農作物の収穫量が低く、人々の暮らしが大変厳しいことを知ります。
彼は官田渓の上流に貯水池と堰堤を造る計画を立てます。それは当時のアジアで最大、世界でも第三の規模となる堰堤の建設計画でした。建設工事にはコンクリートをほとんど使用せず、石や土を用いるセミ・ハイドロリックフィル工法を導入しました。当時日本はおろかアジアでも誰も試したことのない工法でした。計画では水路は長さ1万6千キロにも及び、これは台湾本島13周分、地球をほぼ半周するほどの長さで、15万ヘクタール近くの土地を潤し、土中の塩分を洗い流すことができます。そうして土壌が改良されれば、農作物の収穫量も大幅に上がります。1920年、「公共埤圳嘉南大圳組合」(嘉南農田水利會)による嘉南大圳建設工事が始まりました。
與一はその頃アメリカに視察に向かい、そこで蒸気ショベルなど数々の大型機械やドイツ製の12両編成汽車を購入しました。資金の浪費だという人もいましたが、彼はこうした機械によって工期を短縮できれば、結果的には資金の節約になると考えていました。
作業員たちが安心して仕事に励めるよう、與一は家族で入居できる宿舎を造り、付近には病院や学校、売店の他テニスコート、弓道場、プールも造り、野外映画も常時上映しました。また命にかかわるマラリアから作業員たちを守るため、全ての作業員とその家族に特効薬のニキーネを服用させました。
烏山トンネル工事
官田渓の水と雨水だけでは嘉南平原のすべての農地を潤すことができないため、隣の曽文渓との間にある烏山にトンネルを造り、曽文渓の水を引きいれる必要がありました。工事期間中、トンネル内に湧き出た石油ガスが爆発し、50人以上が死亡する事故が起こりました。工事を中断し、計画の度重なる変更を経て、トンネルは1929年にようやく完成しました。
また1923年には日本で関東大震災が起こり、政府は災害支援のために莫大な資金が必要となり、嘉南大圳事業に充てられるはずの予算も大幅に削減されることになりました。そのために一時的に人員を削減することになり、與一は能力の低い者、生活の苦しい者を残し、優秀な者に新しい仕事を紹介しました。そして一年後、予算が再び増額されると、一度離れた作業員たちを約束通り再び雇い入れたのです。
1929年烏山トンネルが開通し、翌年に烏山頭ダムが完成すると、嘉南大圳のすべての水路が開き、清らかな水が嘉南平原の隅々まで流れていきました。
しかし嘉南大圳の水路の範囲は非常に広く、全体の水量がこれでも十分ではなかったため、與一は「三年輪作給水法」を導入、平原の農地を3つのエリアに分け、それぞれ稲、サトウキビ、雑穀を順に栽培させることでに水をうまく分配し、生産性を向上させました。その際農耕の習慣を変えなければならないことや、水利会費のことなどで多少のもめごとはありましたが、結果的に農民たちは間違いなく大きな利益を得ることができたのです。
人材の育成と技術の伝承
與一は台湾には土木技術員が不足していることを痛感し、総督府の先輩技師であった西村仁三郎の協力を得て1934年台北市樺山町に「土木測量技術員養成所」を開設、彼自身も顧問として多くの優れた技師を育てました。その後、この養成所は数回にわたる校舎移転や学制改革を経て、今の新北市立瑞芳高級工業職業学校(工業高校)となりました。
慰霊碑と銅像の建立
嘉南大圳のすべての事業が終わると、人々は「交友会」を結成し、工事期間中に事故などで命を落とした134名の作業員とその家族のための慰霊碑を建てました。碑に刻まれた名前は、階級も日本人か台湾人かも関係なく、すべて亡くなった時間の順番に並んでいます。人々はまた與一の偉大な貢献に感謝の意を表し、彼の銅像を造ろうと計画しました。與一は当初難色を示しましたが、作業着にゲートルという普段の服装であること、高さのない座像であることなど、ありのままの彼の姿を表現することを条件に、これを承諾しました。
第二次世界大戦末期、日本政府は武器の製造のために民間に対して金属の供出を命じました。嘉南の人々は與一の銅像を守るため、番子田(現・隆田)の駅の倉庫にこれを隠しました。戦後嘉南農田水利會の職員が偶然この銅像を発見し、いちどは水利會から政府に買い取ってもらおうと考えましたが、当時の国民政府は日本を象徴するものを排除する政策を進めていたため、再び八田の宿舎に隠し保管ました。そして政治情勢が緩和された後の1981年、政府の許可を得て烏山頭ダムのほとりに再びその銅像が建てられたのです。
台湾での暮らしを愛した八田與一
1941年、太平洋戦争が勃発し、日本軍による植民地資源の更なる開発のため、與一はフィリピンの灌漑計画調査に向かうことになりました。しかし1942年5月8日、彼の乗った輪船大洋丸は航海中に米軍の潜水艦による攻撃を受けて沈没、800余名の死者の中に與一も含まれていました。
毎年5月8日の八田與一の命日には、水利會が烏山頭ダムで與一の追悼会を開き、與一の台湾への貢献に感謝をささげています。