美好腳蹤系列有聲繪本

井上さん、ありがとう【親子の読書ガイド】

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井上伊之助へのたくさんの感謝の言葉

 

 

井上伊之助(1882-1966年)は日本高知県に生まれ、1911年に台湾に渡ってから終戦後日本への引き揚げを余儀なくされるまで、台湾原住民に医療活動を通じて宣教活動をしていました。

ある日本の学者が井上伊之助に対してこう評価しました“He did nothing.“(彼は何もできませんでした)。というのも実際は原住民が彼の手によって洗礼をうけたという記録がなかったためです。しかし、彼は本当に何の成果も残さずに台湾を離れたのでしょうか?

父の仇討ちのために台湾に来た井上伊之助

井上伊之助の父親、井上彌之助は花蓮港のウィリー社にある樟脳工場の日本人技術者でした。1906年に起こった労働紛争で、タロコ族の人たちは日本人に対して出草(首狩り)という手段で報復しました。その結果、25人の日本人が亡くなり、井上彌之助もその中の一人でした。

この悲劇が起こった時、聖書学校に通っていた16才の井上は修養会に参加しているところでした。あまりに動揺した弟が父の訃報をハガキに赤いペンで殴り書きし、その真っ赤な血のような文字を見て、井上は悲しみのあまり言葉が出ませんでした。彼は周りの人たちの慰めを受け入れられずに、「なぜ台湾の原住民はこんなに残酷なんだろう」とばかり思っていました。

井上は最初は父の死を悲しんでいるばかりでしたが、そのうちに毎日台湾の原住民のためにもお祈りしようと考えるようになりました。彼らを変えて、人殺しをやめさせられるのは神さましかいないと思いました。

しかし、神さまは井上への使命をお祈りだけでは終わらせませんでした。1908年の夏、彼は台湾の原住民に伝道するようにという神さまのお告げを感じて、台湾に渡ることになりました。この時、台湾で根を張って宣教できるように台湾人女性と結婚しようと思いましたが、すでに中田重治牧師の紹介で小野千代と付き合っていました。千代が彼と一緒に台湾での宣教活動に協力したいと言ってくれたので、二人は1908年に結婚し、公私共に支え合うパートナーとなりました。

井上は原住民に宣教したいと日本政府に申請しましたが、日本の国教は神道で、当時の植民政策は台湾の原住民にキリスト教の宣教を禁止していたので、却下されました。その後、井上は医学を勉強し、医師免許を取って1911年に医療勤務という名目で渡台しました。彼曰く「公に宣教できない状況の中、どうすれば周りの人に伝道できるかと言えば、僕自身、日常の祈りと行動で伝道するしかありません。」

日常の祈りと行動で伝道する井上

井上は台湾の基隆港に着いた後新竹庁で到着の手続きをしました。彼が診察する相手は主に日本人と竹東郡周辺のカラパイ集落(Mklapay)と

シラック集落(Sinraku)の原住民でした。原住民が病気にかかったり怪我をしたりしたら、頭目は集落の青年を派遣して診療所へ助けを求めました。彼は青年たちの付き添いで山を越え、川を

渡って集落に診察に行きました。診察するとき、井上はあることに気づきました。井上は診察中に原住民と直接病状について話をできず、いつも通訳者を介さないと病状を把握できませんでした。通訳がいなければ、患者の診察を遅らせるしかありませんでした。患者たちの苦しんだ様子を見て、井上は心の中で彼らのため祈るしかありませんでした。そこで原住民と直接コミュニケーションをとるため、タイヤル語を勉強しました。その後、井上は原住民と言葉も通じるようになって、日本政府の目をかいくぐって、原住民たちに伝道できるようになりました。

井上の山での暮らしは大変でした。食料品不足のうえに毒蛇や虫などに苦しめられました。住む家も日干し煉瓦の簡素なものだったので、台風や大雨になると雨水で煉瓦が溶けて家は泥の塊となり、そのたびに近所の日本人の部屋に避難していました。

二度目の渡台 医療伝道は続く

1917年井上はマラリアにかかってしまい、治療のため日本に帰されましたが、1922年に再び台湾に渡りました。彼の活動範囲は新竹以外に台中洲の白毛社(Mebasin)、バイバラ社(Mb‘ ala)、マレッパ社(Melepa)及びブヌン族(Bunun)のナイフンプ社(Naihunpu)、マハーバン社(Mahavun)まで広がりました。

1930年の霧社事件の後、日本の警察は井上に逮捕したセデック族を毒殺してほしいと要求しましたが、井上は固く拒否しました。事件後生き残ったセデック族は川中島(現在の南投県仁愛郷清流のグルバン集落Alang Gluban Kawanakajima、「Alang」とはセデック語で集落の意味。)に強制移住させられました。そのとき、集落にマラリアが流行したので、井上は診察をしに行きました。

台湾原住民の純粋さを感じ取る

井上は原住民と一緒に暮らしていくうちに、原住民の性格や文化の純粋で美しい一面に気づくようになりました。彼は各地で講演をした時やラジオ番組に出演した時に、原住民集落の貞操観念が平地の人よりも高いこと、孤児と寡婦の面倒をよく見ることなどを大いに褒め讃えました。そんな道徳と良心を重んじるところは平地では失われつつあるものでした。

1945年以降世界の情勢による変化

台湾の原住民にだんだん受け入れられていった井上は、残りの人生を台湾で全うしようとしました。第二次世界大戦に日本が敗戦し、国民党政府が台湾に移転した時、井上は政局の変化に合わせて「高天命」という台湾人の名前に改名しましたが、結局1947年に台湾を離れなければならなくなりました。

日本に戻った井上は宣教と学校教育の仕事に就きました。しかし、彼は台湾の原住民の宣教活動を常に気に掛け、よく台湾の伝道士たちと文通していました。そして、毎日台湾原住民の宣教奉仕者のためにお祈りしました。

神は織り給う

台湾から日本に戻ってきた井上は、決められた量の簡単な荷物と台湾で亡くなった三人の子供(長女ルツ子、次男正明、次女知恵子)の遺骨のほか、四男の祐二からの怨みも持って帰りました。祐二は一時期父親の「愛が恨みに勝つ」というキリストの心が理解できませんでした。父親が遠い所にいる霧社の異邦人ばかり世話して自分の家族を顧みないことを恨んでいました。しかし、井上が亡くなる前の10年間は祐二が中心となって井上の介護をしていました。この10年間父親と身近に接して、ようやく父親のことが理解できるようになり、父親の行いに対して感動しました。井上が寝たきりになった時に、当時玉山神学院の院長だった高俊明牧師は彼のお見舞いに訪れ、1万名以上の原住民がキリスト教徒になったことを彼に伝えました。それを聞いた井上は顔に微笑みを浮かべ、「神さまは私を肥やしとして、福音の種を芽生えさせました。」と言いました。井上伊之助は1966年6月20日、84才でこの世を去りました。

この絵本は鄧相揚さんが書いた井上伊之助に関する文章と思い出に基づいて書かれたものです。霧社事件の当事者である花岡二郎(ダッキス・ナウイ)の未亡人、高彩雲(オビン・タダオ)が川中島に移した後、難産の末に大量出血で危篤状態にあった時に井上が治療してくれたおかげで、母子共に命が助かりました。

何年か後に高彩雲は鄧相揚が埔里(プリ)の町に開いた臨床検査所を訪れて、井上の墓を探してもらいたいと頼みました。彼女は自ら井上にお礼を言いたかったのです。

1999年、鄧相揚は埼玉県の入間墓地に井上伊之助の墓を見つけ、四男の井上祐二にも連絡が取れました。井上の墓石に「愛」の文字とその下に「トミーヌン・ウットフ」*(tminun Utux)のタイヤル族の言葉が刻まれていました。「トミーヌン・ウットフ」はタイヤル語で「神は織り給う」という意味です。織り機で縦糸と横糸をしっかり打ち込むときに「ジリ!ジリ!ドゥルン!ドゥルン!」と奏でる音は、まるで神さまが井上の人生を織って、唯一無二の織物を織りなしたというような意味を表しています。神さまは彼の一生を通して、愛が悪に勝つという教えを実践しました。(ローマの信徒への手紙 12章21節)人生で最も強い力は愛であり、愛があれば人を変えられるのです。最も強い力は軍事力でもなく、政治力でもなく、愛です!愛があるからこそ人と人の間の憎しみが解けるのです。

 

 

この記事の執筆にあたり盧啟明さんと李台元さん(LI Tai-guan)と陳穎柔さん(Tan Engjiu)による資料校正などの協力に感謝します。

*2019年 5月、著者・陳嘉鈴と編集長・江淑文が井上伊之助の墓を再び訪ねると、墓石は建て直されており、新しい墓石にはこのタイヤル族の言葉は刻まれていませんでした。